暗夜迷宮日記テキスト版

大規模怪異発生日記

20230318

私の新しい住処である職場がある陽桜ひざくら市丸ごとを、
禍々しいナニカが覆っているそうで、
人が攫さらわれている事と、
被害者に関する記憶と記録がきれいさっぱり消えてしまっている事を、
師匠とランさんに報告した。
師匠の張った結界ギリギリまで覆い被さっているらしい異界という物は、
他星をも繋ぐ界狭間を排他対象と決めているようで、
他星の二人が当家へ応援に来ようとしたが、戻されたそうだ。
私はバンパイアになったお蔭で、
今件で神隠しに遭った人達の記憶は失わずにいるようだ。
私が人間だった頃に神隠しに遭ったと噂されていた
机の主も異界に居るかもしれない。
そして、朗正あきまさ愛息の仲の良い友達だったイトウ君も。
共にバイトして共に旅行して布団を取り合った程に
仲の良かった友人を忘れさせるとは許し難い。
きっとこの事件の解決の一助となる事を誓おう。
誓う……師匠と加護を戴いている五智如来と薬師如来に。

20230219

師匠とランさんに、
私の記憶が保たれている証となり得そうな物の提供を頼んだ。
お二人は直ぐに、
私や真代まよが登場する日の
彼らが記した日記を送ってくださった。
有り難い。
師匠の結界で強固に護られているから
堅守されるだろうと期待して真代まよと、
比較用にパソコンと私のタブレットに複製した。
人間だった時にこのスケールの事件が起きたら
私は此処まで不安に感じたろうか……。
いけないいけない!!
たらればに浪費して良い人生など有り得ない。
お二人に好くしていただいた事を思い出しながら床に就こう。
またたらればが湧いてきたら、
非課税所得が百万有ったら何に使うか考えよう。
ヨシ!

20230220

呪符の発動を早めるべく
試行錯誤していたら、
隣の市を本拠地とする始祖が、
師匠からの差し入れを届けてくれた。
何やら呪力の底上げと不安緩和に効果的らしい。
総重量5キロ以上はある大瓶の中には
1センチ角程のサイコロと
細かく刻まれたナニカが
ぎっしりと金色の液体に浸っていた。
魔鳥肉の香草油漬けだそうで、
毎日十欠片程を味付けして、
コンロや電子レンジでじっくり火を通してから
食すと良いそうだ。

うむ、初めての風味だ。
鳥ならば、食べ慣れたブロイラーより、
遥かに膨大な運動量を熟して
長く生きてきた大きなもののイメージだ。
漬かりが浅いからだろうか、
穀物食の動物とは全く異なる変わった臭いがする。
雑食、もしくは肉食なのかもしれない。
私が長年、自然食品や香草漢方の類いに
疎い生活をしてきたから
余計になのだろうと思われるが、
……効きそうに感じる。
有り難い。

20230221

よく眠れた。
嫌な夢もみず、すっきりと目覚めた。
師匠の薬草が効いたのだろう。
不思議と身も軽くなっていたので、
始祖の地下施設を使わせてもらって
温水プールで泳いだ。
吸血昏睡事件のせいで
足腰が弱っていた私の体力作りに
水泳は打って付けだ。
海水浴は苦手だが
消毒薬の匂いのするプールは好きだ。
暫く歩いたり泳いだりしていたら
桔梗院から連絡が入った。
25日まで待機。
有り難い。
緊急警報宜しく
突然招集が掛かるものと思っていたから、
ストレスの半分が解消された。
師匠とランさんに報告のメッセージを送ったら、
数分もしない内に返信が届いた。
ラン「気が逸る事もあるだろうけど焦らないで
ちゃんと規則正しい生活して
訓練頑張って」
はい、そうします。

20230222

門から玄関まで
「たのもー! 猫の日!!
たのもー! 無病息災グッズは要らんかねー!」と
繰り返し叫びながら
今日日珍しい押し売りがやって来た。
何故、真代まよが押し切られて
呪符発動訓練中の私を呼びつけたのか
不思議に思いながら受付に降りると、
真代まよの製造者である花門かもん京斉ちかなり店長の
店のチビ猫獣人、
ナリスさんとチカッツさんだった。
新発売したクッションのモニターをしてくれと言うので
快く引き受けた。
五十路男が部屋に置くには可愛すぎるが、
爽やかな松のような
好みの薫香に抗えなかったのだ。
中綿に香料が仕込んであるそうだ。
ええい、商売上手め。
何か買わなくては大人・・がすたるじゃないか。
無病息災グッズを見せてもらうと
六猫をむびょうと掛けていて
六人の猫獣人が描かれていて
これまた可愛すぎたので、
他のシリーズも見せてもらったら、
「あしたはしあわせリアルなりちか」シリーズなら
朗正あきまさ愛息が好きそうなので
ティーシャツを購入した。
どうやら彼等の店では
「なりちかのたいせつなこと」を広めたいようだ。
未来を見据えた願いで
納得ゆくものだったので、
自分用と劇団員用に多めにエコバッグを注文した。
仲間に渡しておけば
家族でも友人でも
誰かしらが使ってくれるだろう。
一文無しの時でなくて良かった。

20230223

生まれ年の本尊の真言を調べて覚えた。
阿弥陀如来、おん・あみりた・ていせい・から・うん。
師匠に報告すると喜んで呪符を送ってくださった。
師匠は回復魔法に活用していたそうだ。
書く練習もして、
己の字でより強力に発動できるものか試してみよう。

20230224

早くもカモンサトから
「なりちかのたいせつなこと」
エコバッグが納入されたので
前勤務先であった本社へ届けた。
昼食を一緒に取ろうと
体を空けていてくれたほおのき社長と吉田きったと
三人で例の肉屋へ行った。

怪異らしき噂が隣席から聞こえ、
思わず耳を欹そばだてた。
積極的な吉田きったでさえ
見知らぬ客だったので取材宜しく
声を掛ける訳にはゆかなかったのだ。
彼等の職場で起きた神隠しも雑なようで、
私のタブレットの千社札の不自然な空間のように、
アナログデータは消せても
隙間を埋める事はできなかったようだ。
印刷物の頁がずれるなどの不整合。
不思議だ。
桔梗院からは
端はなから生まれもしなかった事になっている
被害者も多いと聞いた。
怪異の力量に由よるのだろうか。

二人と戦争の話もした。
どうしたら戦争より対話の方が
割の良い手段と思わせられるか。
他者を数字としか思っていない輩には
今更何も通じないのか。
理性的な人間を家庭教育で増やす大切さ、
善悪を歴史から学ばせる学校教育の大切さ、
全体主義への嫌悪と個人主義の限界、
子育てに殊関しては一人でも多くの人間と連携する事の大切さ、
以前通りに放談し合ってきた。
最後にエコバッグの販売者が、
ナリスとチカッツ「他者に優しくしたくなる程度に
全てのニンゲンが幸せになりますように」
と、
月に願いを掛けていた事を話したら
二人とも目の玉を剝いて仰天した。
うむ、私も件の投稿に触れた時は驚いたものだ。
それこそが宗教の本質的な
存在意義なのではなかろうかと社長が溜息をついた。
とんでもない難易度だが、
役者の使命と相性は良いんじゃないかとも。
ナリスさん、チカッツさん、
「なりちかのたいせつなこと」の
賛同者を二人得られましたよ。

20230225

寝不足の脳みそに桔梗院から連絡が入った。
待機一日延長。
盛大にほっとして
支援魔法の鍛錬をしていたら、
始祖がニンゲンの弟君を連れてやって来た。
一般人向けの設定は双子の弟だが、
本当は始祖か始祖の兄上かの子孫らしい。
私の支援がどの程度のものか
久実ひさのりさんで試そうと言うのだ。
一瞬で緊張が舞い戻った。
少々ばかり丈夫なただのニンゲンを私の支援で
武闘派バンパイアの相手を務められるレベルにしろと
言うのだからぞっとした。
「ダーイジョウブ大丈夫。
AED仕様のなりちかクッションも連れてきてるし
凌司りゅうし君も復活魔法符、作ったんだろ。
今やらないで何時やるのー!」と始祖。
「今デショー!!」と久実ひさのりさん。
大空ひろたかさんがこの二人を
おばか兄弟と呼ぶ訳が分かった気がする。
私は無我夢中必死で90分間、
久実ひさのりさんを援護し続けた。
一分すらも休憩を挟まない二人のタフさに驚愕した。
90分という制限時間は私の為のものだったのだ。
スパーリング後に三人で風呂に入り、
談笑してやっと冷静になって思い出し安堵した。
そうだ、一時は久実ひさのりさんもバ×スセイバーとして
前線で戦っていたのだった。
「少々ばかり丈夫なただのニンゲン」などではなかったのだ。
失礼しましたと言ったら、
「いンや、俺っちは少しばかし頑丈なだけの
ただのニンゲンで間違いねぇよ? まじで」と久実ひさのりさん。
「おう、まじだぜ。
コイツは大空ひろたかの支援が有って
やっとナントカ使えた程度のレベルだったから、
今回の凌司りゅうし君の支援は凄ぇ強力だったんだぜ。
明日から俺に掛けてくれんだろ?
楽しみ倍増しだよ」と始祖。
ああ、やはり私は始祖のバディになるのか……。
うーむ?
考えようによっては有り難い事か。
私の人見知りも遠慮癖も
一方的に迷惑を被ったという出会いのお蔭で
始祖には全く出ないのだから。
この強い男なら戦闘中に
私の未熟さが表出してしまったとしても
持ち堪えてくれるだろうから
私も速やかに冷静を取り戻せるだろう。
大切にしなければならない仲間では
初心者には荷が勝ちすぎるというものだ。
ああ、気が楽になってきた。
今夜はまたぐっすり眠れそうだ。

20230226

始祖が日暮れ後に来訪した。
今日は帰る気は無いようだ。
私は昼過ぎ頃から
落ち着きを取り戻す事ができなくなっていた。
所在なく庭を歩き回っていた姿を始祖に見られたが、
彼は「動く事は良い事だよ」と真顔で言って
地下へ私を誘なった。
今夜始まる探索に備えて
体力を温存するという考えは全く無いらしいが、
私に同じ事を強要するという事はしなかった。
バンパイアの弟分達から慕われる所以なのだろう。
彼は彼の秘密の喫煙室と居室に
初めて私を案内してくれた。
始祖「あんたさんの好きな方で
好きな過ごし方をしてれば良い」と言って、
自分は鼻歌を歌いながら
パンチングバッグを叩きに行った。
隠された空気清浄機が
良い仕事をしているらしい喫煙室には
世界中の煙草が壁面の棚に
美しく陳列して保管してあり、
室の真ん中にはお気に入りと思われる
アンティークの大きな背もたれの
真紅の別珍が張られた一人掛けの椅子が一脚と、
白いレリーフ装飾の施された
藍色の炻器の灰皿が置かれた
猫脚の美しいサイドテーブルがあり、
室の四隅には古びた大きなスピーカーが設えてあり、
たった一本の煙草を嗜む時間に
凝らせる贅の総てを凝らした様が窺えた。
ながら喫煙は一本たりともしない様だ。
私は暫し椅子に深く腰掛けて完全なる静寂を味わった。
始祖「時間だ。
風呂入って着替えるぞ。
あんたさんはルーキー臭を流してから出陣するんだ」
しかし、入浴して食事して一服して、
何時間経っても桔梗院からの探索開始指令は入らなかった。
最初だけは指令が入らねば異界への我々の道が開かないらしい。
始祖「桔梗院システムダウンしたか? 
……ま、これで俺達が即座に動けなくても責められる事はなくなったから、
あんたさんは寝ちまいな。俺も地下で寝るからよ。
来たかったら来ても良いぜ。
未だ見物終わってなかったろ?」と始祖。
スウェットとスリッポンを、
ウ×ッジウッドや猫脚のアンティークと同等にこよなく愛する男が、
あの大きなスピーカーで何を聴くのか興味深かったので、
私は黙って頷くと彼に尾いて階段を降りた。
彼の居室に着くと、
私は即座にレコードやCDの類いを目だけを走らせて探したが
一枚も見当たらず始祖へ振り向いた。
始祖「ン?」
私「君があの立派なスピーカーで何を聴いてるのか知りたかったんだ」
始祖「アー、アレな。場所取ってしょうがねぇから、音楽は全部コイツだよ」
彼はパソコンの隣に陳列された無數のUSBメモリを指差した。
音楽だけでなく映画や本も電子化して
この小さなスティックに保存しているようだ。
全てに付箋のような物が貼付されている。
ジャズ、ブルース、フュージョン、ヒップホップ、R&B、
ソウル、ファンク、ポップス、ロック、演歌、レゲエ、民族、クラッシック……ゴスペル。
私「ゴスペル?!」
思わず頓狂な声が飛び出した。
始祖「聴くよ。アー、吸血鬼だから、か! 
別に耳が焼けたりはしねぇよ。聖書も声出して読めるし。
きっとアレだろ、聖なる物だと信じてねぇから、だろ。
教会の穢れた部分にニンゲンだった頃リアタイで触れまったからな。
こうなる前に既に見下してたからだろな。
俺の始祖なんかは銀でもねぇ十字架の杭で復活できなかった位には
敬虔なキリスト教徒だったらしいが、
俺は……うーん? ……お伊勢さんが俺を倒そうとしたら、
やられちまうかもな、ぎゃはははは」
仏が吸血鬼を敵対視したという
先入観が無かった事を心底有り難く思った。

20230227

桔梗院に動きなし。
私は始祖と共に地下に、
始祖の部屋とジムに入り浸っていた。
妙に居心地が良いのだ。
芝居関連の仲間でもない同性と
一つ処で過ごしたのは
遠き高校生時代以来だった。

20230228

桔梗院に動き有り。
明日20時に異界への道が開かれるそうだ。
この三日間は得難い有り難い時間だった。
今日の昼間は
始祖と私は二階のサンルームで読書した
筈だったが何ページも進まない内に私は眠っていた。
目覚めると始祖が本業に精を出していた。
賃貸借契約の相手チェックだ。
極々稀に敵対バンパイアが
嫌がらせの為に契約しようとするらしい。
わざわざ大枚をはたいて入居してから
騒音を立てたり
ゴミを撒き散らしたり
人々を襲ったりして
評判を落とそうとするらしい。
不思議だ。
余程暇なのだろうか。
表面上はいまだ平和なこの国で
幾らでも楽しみが他にあるのではなかろうか。
芸術や娯楽の未来に対する
絶望の表われなのだとしたら
役者として歯痒い事限りなしだと私が言ったら
彼はふっと柔らかく笑んだ。
嘲りではなく慈しみ。
始祖「アー、たまーにそういうのも居るらしいが
元々趣味の悪いヤツってのが存在するんだよ。
処置無しだから
殺してやるのが優しさってヤツだな。
知覚も感情も思考も無い処に送ってやる。
仏教で最終的なしあわせ救いとして定義されてんだろ。
未練が捨てられない奴等の為に
方便で現世利益も授けてくれるんじゃね。
現世で納得すりゃ
大人しく輪廻解脱の努力もすんだろって
事なんじゃあないのかね」
脳筋だと思っていた男の頭の中が意外過ぎて
惹き込まれてしまった。
食事点滴中も話に興じた。
アレルギーの話からコミュニティの話、
若者の為に年寄りができる事まで。
良い時間だった。

20230301

始祖と始祖の二名の弟分バンパイアと一緒に
市内を徒歩と地上循環公共交通機関で廻った。
近所に住む彼等が始祖を訪ねてきて、
夜の探索後に備えて
街並みを把握しておく事を、
私に提案したからだ。
二人は家庭環境の変化により
今回は桔梗院の招集に応えなかったが、
以前に見知らぬ町での作戦に参加した事があるそうで、
探索後になかなか往生したのだそうだ。
邸の門を出た途端に、
先日本社へ出掛けた時には
気のせいで済ませていた知覚の違和感が
大きくなって戸惑っていた処、
一人がバンパイア独特の知覚について
大まかにレクチャーしてくれた。
敷地内は始祖の血の結界で
知覚が護られていた事も話してくれた。
始祖ももう一人もすっかり当然となっていた感覚で
私の戸惑いの原因に思い至らなかったのだそうだ。
講師はバンパイア歴が浅いそうで、
まだまざまざとバンパイア化の
移行期動揺障害症状を思い出せると苦笑した。
外出前に始祖から
怪異になった経緯を訊くのは
野暮天のやる事だと聞かされていたので
訊かなかったが、
はっきり言って興味津々だ。
巻き込まれたのか望んだのかくらいは知りたかった。
親しくなれば話したくもなるかもしれないから我慢するが。
もしかすると私は望まず怪異化した者に
仲間意識を持ちたいだけなのかもしれない。
それは失礼な事だ。
元い、
始祖を同じくするバンパイア同士なら
軽く訓練すれば
精神感応念話が使えるそうで
他客の居るバスの中で訓練を始めた。
脳に届いた言葉をタブレット端末に入力して、
発話者に添削されるという手順。
先ずは絆が強い始祖から。
始祖「テステス」
第一声が脳内に届いた時、
私は思わず背が丸まる程に頭を抱えた。
それでも始祖は音声会話に切り替える事はせずに続けた。
始祖「アー、小声にしたつもりだったんだけどな。
もしかしてあんたさん、元っから聴こえる人種?」
私の中で妙な意地が沸き上がり、
目を閉じて始祖に全身全霊を傾け、
心で返事してみた。
私「何が?」
始祖「へぇ、やるじゃん。
目に見えない連中の声」
私「まさか。
まったくそんな才能は無かった」
始祖「フッ、「才能」な。
くっくっくっく……」
私「何がおかしい?」
始祖「いんや? 善い奴だなぁと思っただけさ。
とりま、俺とは完璧だな。
歩きながらでも返事できるか試してみようぜ」
歩きながらは無理だった。
受話はできるが返事ができなかった。
二人の兄弟分の声も聞き取れたが、
返事は届けられなかった。
始祖「ま、焦る事はねぇよ。
今はインカムっつぅ便利なモンもあるし、
俺の声があんたさんに聞こえて
あんたさんの俺を呼ぶ声が俺に聞こえりゃ
あんたさんの直面した問題は解決できるからな。
ダーイジョウブ大丈夫。
さ、時間だ。
帰って風呂入って着替えたら初陣だ!
おーれはグレェエイット!
おーれはサイキョーッ!
未だ見ぬ味方も未だ見ぬ敵も
今宵まみえるヒザクラシティ~♪」
……真代まよのへっぽこラップの
作者は彼なのか?

20230302

昨日から始まった怪異対抗訓練システムの
最適解が掴めず難儀している。
始祖も思ったように戦えていないようだ。
他の退魔師の訓練ログを見せてもらおうと思ったが
己の物からしてアクセスできなかった。
システム管理部も大変なのだろう。
己にできる事といえば
己のスキルを増やす事だろうという事で
私は新たにごうぶく系の真言を持つ仏尊を探した。
そうして見つけた
弥勒菩薩の真言を唱えながら
種子真言であるユを幾度も書き、
ようやっと形になったものを師匠に送った。
よしこれでと思った瞬間に
描画ソフトが強制終了した時は
菩薩の意に反したかと青褪めたが、
ソフトを再起動すると
何事もなかったかのように保存されていたので
胸を撫で下ろした。
師匠は数十分で
魔力を込めた種字を返信してくださった。
有り難い。

20230303

世は桃の節句か。
私は観世音菩薩の真言を唱えながら
種子真言であるサを
幾度も繰り返して書いて
やっと書けた納得いくものを
師匠に送って
新しい呪符を手に入れた。
妙法蓮華経
観世音菩薩普門品第二十五より
攻撃反射を私が期待して抜き出した一部は
全く同じ箇所を
師匠も使っていたそうで
数分も待たずに送っていただけた。
膠着しそうだった
ランさんと師匠が受けた依頼状況を
ナリスとチカッツが打破したそうで、
端末の向こうの大層嬉しそうな様子に、
始祖と私の頬も緩み
秘蔵のワインを開けて一緒に乾杯した。
始祖は久実ひさのりさん達と暮らしていた
自宅へは帰っていない。
万が一、
陽桜ひざくら市境が敵の力で封鎖された時に
備えているようだ。

20230304

此処へ越してから私は
二日に一度の点滴を
体型維持の為に夕食に充て、
朝食と昼食を
外食か、
料理とも呼べないレベルの自炊と
スーパーの惣菜の組み合わせで
済ませてきたが、
とうとう私の食生活を見かねて
始祖が厨房に立った。
始祖「体は資本だ。
あんたさんは役者だろ?
見かけの細さだけ維持してちゃ駄目だ。
今の肉体年齢の運動量じゃ
塩分多過ぎだから何時か倒れるぞ」
師匠が送ってくれた肉と
肉の漬け油を巧みに使い、
香草の風味を活かして
塩分を抑えた焼き飯をご馳走してくれた。
始祖「俺も凝ったモンは作れんが、
まだ身体にマシな筈だ。
あんたさんは料理が嫌いじゃないんだろ?
薄味料理本を探しに行こうや」
と言って昼過ぎから一緒に三軒、
何故か古本屋を巡っている。
精神感応念話の訓練をしながら。
私は不器用な部類らしいと痛感させられている。
め、めげないぞ!

20230305

戦闘関連は私には向いてないかもしれない。
とうとう本日
精神感応念話は泳ぎながらでも
始祖になら返事できるようになったが、
桔梗院の戦闘訓練は丸きり駄目だった。
ヒーラーもタンクもアタッカーも駄目だった。
始祖は今回システムの様子が違うようだから
気にするなと言ってくれたが、
此処まで訓練ごときでボロボロになると
意欲が削がれる。
暫く休んで心機一転を図ろう。
ん?
そういえばバンパイアとして目覚めてから
休日らしい過ごし方をした日がなかったな。
明日は丸一日
呪符とも訓練とも離れて過ごしてみよう。

20230306

異界め、どうせなら花粉も排斥してくれれば良いものを。
始祖の血の結界の外に出た途端に、
目の痒みに襲われて踵を返した。
不幸中の幸い、
マスクと点鼻薬は仕事してくれていたので
鼻炎は起きなかったが、
昨秋まで神業とも呼べる効果を発揮していた
抗アレルギー点眼薬が効いておらず、
始祖に場所を訊いて、
私は花粉対策眼鏡を掛けて走り、
バンパイア専門病院へ飛び込んだ。
古びた重厚な扉の内へ飛び込んだ瞬間に
究極の選択を迫られた。
目玉を取り出して束子で洗いたい衝動と戦いつつ
鼻を誤魔化すナニカを探しに行くか、
ひたすら悪臭に耐えるか。
臭い。
強烈な獣臭。
魔鳥肉を上回る獣臭。
いっそ鼻炎であった方が余程マシだったと
泣きそうな心持ちで外へ出ると、
先日の講師バンパイアが私の名を連呼している
精神感応を感知した。
タケシ「ーん! リューシくーん! かどりゅーしくーん! きこえるかー!」
扉の上部に設えてあった看板を確認して、
講師バンパイア、
タケシさんの姿を思い浮かべて精神感応で返事を試みる。
私「タケシさん、聞こえました。かど凌司りゅうしは此処です、病院の北東入口です」
タケシ「ああ、良かった。すごいやん、返事できるようになったんやな! 
あかんあかん、コレやコレ。
中、クッサイやろ? 
大概みんな完全な肉食になってもうとるから体臭キッツイんよな。
自分の嗅覚も鋭なっとるしな。このマスクしとき」
今背を向けたばかりの扉と私の間に現れた
タケシさんに差し出された
何の変哲もなさそうなカーキ色のウレタンマスクを鼻に宛てがうと、
何の匂いもしないのに呼吸がすうっと深くなった。
恐る恐る再び魔境の扉をくぐる。
此度は嘘のように清潔な
病院らしい匂いだけがマスクをすり抜けた。
私「タケシさん、ありがとうございます。
普通の病院の匂いになりました」
タケシ「うん、良かった良かった。ほな、またな」
私がお辞儀しようと振り向いた時には既に彼の姿は無かった。
疾風のように現れて疾風のように去っていくという
古い歌が脳裏に流れた。
なんの歌だったかは思い出せないが、
ヒーローの主題歌には違いなかろう。
有り難い。
主治医「はい、かど凌司りゅうしさんお待たせしました。
お、良いマスクしてるね。
それが必要になったって事は
知覚がまた更に鋭敏になったって事だね。
あと、花粉症?」
私「はい、その通りです」
主治医「じゃ、目玉洗おうね。
鼻炎は大丈夫そうだね……
うーん、でも何時までもつか分からないから
一応飲み薬出しとくね。
耳からもアレルゲンって入ってくるからね、
抗アレルギーに関しては飲んだ方が効率良いんだ。
長くても一年くらいかなぁ、
したら自律神経が慣れて
人間用の薬がまた効くようになるからね、
暫くは辛抱だね。
洗眼器と洗眼料処方するから外出の前後に使ってね」
医師の話を聞きながら、
看護師から渡された洗眼器を看護師の動作に倣って使い、
両目を洗う。
清涼感は全く無いが、
全ての目の違和感がすっきり無くなった。
実に有り難い。
主治医「ところで、どう? 万禮ばんらいさん。
悪い人じゃないでしょ?」
私「ええ、かなり意外な程に良い人物で驚いてます」
主治医「うん、ちょっと早とちりだけど
洞察力があるから直ぐ軌道修正できるし、
ちゃんと善い方に脳みそ使ってるから言動は信頼して大丈夫だよ。
まぁ、同族化しちゃったくらいの早とちりはアナタが初めてだけど」
私「え、そうなんですか?」
主治医「そうだよ、しょっちゅうやらかしてたら
牢獄行きの前に破産しちゃうよ。
彼レベルの資産家だと二犯までは
一生何不自由なく後援する事で償いましょうって決まりだからさ」
私「そ、そうなんですか?」
主治医「たぶん三犯で償いプラス無期懲役かな。
資産が無い者は最初から無期懲役ね。
金の有無に関わらずニンゲンの殺人は一犯で二百年幽閉。
バンパイア同士の殺人は事情次第でピンキリ。
その昔バンパイアハンターが決めた刑だからね、
バンパイアが減る分には万々歳って感じが露骨なんだよね。
彼は毎回、侵犯防衛でお咎め無しだけど、
確か三十年で二桁は始末してるかな」
私「じゃあ、彼の弟分達は……」
主治医「うん、彼が同族化したんじゃないね。
何人かは殺した相手の弁償対象だ。彼はお人好しだと私が思う所以だよ」
私「なるほど……」
主治医「他は何か無い? 
私は肉体的な事だけじゃなくて
精神的な事も聴かせてもらうのが仕事だから、
時間は気にしないで」
私「うーん……怪異対抗組織の訓練についていけなくて……少し参ってます」
主治医「うんうん、アレ大変らしいね。気にしなくって良いと思うよ。
訓練システムがまだ完全じゃあないんじゃないかな。
今回退魔師に志願した他のバンパイアにも
苦戦してる人がいるみたいだからね。
何かが合わないんだろう。
もしかしてスタートダッシュ決めたいタイプだった?」
私「いえ、同僚と息子の友人を見つけられるかもしれないから……
まだ気が逸ってるのかな……」
主治医「そうか、それは焦りが消せなくても不思議はないよね。
うん、そうだな、今は先達を信用して時機を窺おう。
きっとアナタ達の能力が必要になる時が来るのでね、
それまで体力を取り戻して温存して、ね。
ああ、そうだ、始祖と係累は反映し合う事は覚えてってね」
私「分かりました」
主治医「他には?」
私「ありがとうございます。他は今の処思い付きません」
主治医「うん、何か有ったらメッセンジャー使ってくれて良いんだからね。
処方薬の袋に押してあるスタンプは主治医である
私宛のメッセンジャーが立ち上がるコードだから。
ちょっとした事でも我慢したり独りで悩んだりしないようにね。
移行期は極論まで思い詰めやすいから絶対孤独にならないで」
私「はい、よく覚えておきます」
会計で処方薬の受領も済ませ、来た時と同じ北東口を出ると、
棒付き飴を咥えてヤンキー座りしている始祖に出会した。
私「久幸ひさゆきさん、不良少年役が似合いすぎるなぁ」
始祖「知ってる」
私「どうしたの?」
始祖「凌司りゅうし君を待ってたんだよ。臭くなりに行こうぜ」
私「……意訳『肉食いに行こう』?」
始祖「正解〜!」
常時通りスウェット上下にスリッポンの始祖に案内された
ドレスコードがギリギリ無い高級焼き肉店で、
促されるまま高級赤ワインと高級和牛をたらふく御馳走になった。
うむ、良い休日だ。

20230307

喜劇は得意ではなかった筈なのだが、
喜劇としかたとえようのない
間抜けを天然で演じてしまった。
何とまぁ、
第三戦闘訓練は四名まで
同行者を依頼できたのだ。
二人では訓練三をクリアできないという
内容のアドバイスを残してくれていた
退魔師仲間のお蔭で気付いた。
有り難い。
主治医(回想)「始祖と係累は反映し合う」
始祖は初めて私を同族化したというから、
直系係累の影響の強さを
彼も知らなかったのだろう。
私のパニックが
始祖を引きずってしまったに違いない。
ともあれ、
やっと訓練を修了し、
桔梗院によって
異界表層境界への路が開かれた。
「戦争は数」
何処かで聞いた台詞が脳裏にこだまする。
ファーストミッションは
四名の仲間のお蔭で攻略できた。
次の段階に備えて
同期の皆と交流を図るべく、
メッセージアプリNYINEをインストールした。
くッ、けしからん名前とアイコンだ。
端末の設定を見直したので、
通知が鳴らなければメッセージは無いというのに
猫のアイコン可愛さに
思わず何度も見てしまうではないか。

20230308

昨夜は深夜まで眠れず
桔梗院やかみな組合の
案内を眺めていて見つけた
退魔師のSNSにも登録した。
登録した途端に
睡魔が現れたので眠ってしまったが。
今日は朝から地理把握の為に
市内を歩いているが
妙にぼんやりする。
処方薬が強いのか、
全く別の要因か。
バンパイア化以前から
ぼんやりしている時は不思議と
美味い食い物屋を見つけられるので
文句は無いが。

20230309

眠りの浅い夜が続いている。
寝覚めからはっきりと夢見が悪くて不愉快な時もあるし、
夕方ごろになってふとした瞬間に
嫌な場面の断片が脳裏に舞い降りてきて、
嫌な夢を見ていた事を自覚させられる時もある。
下らない事に精神を摩耗されたくない。
精神に作用する薬は飲みたくない。
いよいよ胃腸の調子も冴えなくなってきたので、
地図アプリで不眠と入力して市内を検索する。
薬局、整体、睡眠クリニック、心療内科、精神科……神社?
夢現神社、貘の神を祀ってる?
これは行くべきだという事で朝から歩きに歩いて参拝した。
深い森の中、清浄な空気、豊かな自然の薫り。
彼処で昼寝させてもらったらさぞ熟睡できそうだった。
花粉の季節が過ぎれば、だが。

「畏み畏み申し上げます。
祓い給え浄め給え神ながら護り給え幸らえ給え。
祓い給え浄め給え神ながら護り給え幸らえ給え。
祓い給え浄め給え神ながら護り給え幸らえ給え。
本日は参拝させてくださりありがとうございます。
陽桜ひざくら市御影×丁目八の三に
越してまいりましたかど凌司りゅうしと申します。
寝不足と悪夢の解消をお願い申し上げます。
寝不足の原因はプレッシャーだろうと思うので、
プレッシャーに負けぬ精神の鍛錬に自らも励みますが、
どうぞ御助力の程お願い申し上げます」
御礼参りに早く来られる事を願う。
その時には賽銭も
青くないひらりとしたものを奮発しよう。

20230310

睡眠負債一挙返済か?
昼過ぎまで数回目を覚ましたが惰眠を貪り、
昼からも霧がかった頭で寝台に横たわったまま
タブレット端末を片手に怠惰の限りを尽くしている。
もう17時半になろうというのにまだ脳も体もシャッキリしない。
貘の神は私の悪夢を食えたのだろうか?
今日は全く夢を見た記憶が無い。
有り難さに夢現神社に想いを馳せると、
賽銭箱以外はなかなか年季が入っていた事に気づいた。
貘の神が早めの御礼参りを望んで、
最大限の尽力をしてくれたのかもしれない。
社務所が開いている時間に詣って、
御札や御守などが頒布されていたら、できる限り求めて来よう。
御守とは本来、大切な相手の為に買い求めて贈るものだったそうだから、
布教と一石二鳥を狙って、
愛息朗正あきまさだけでなく、
始祖のニンゲンの家族である
万禮ばんらい家の方々にも贈ろう。
地域に根差した芝居も良いなぁ。
具体的な固有名詞は言わぬが、セットや道中の描写で、
地元の方々が観たら「おや、もしかして」と
思い当たるようにしてはどうだろうか。
「あの道の、あの角の、もう少し先まで今度行ってみよう」と
思わせられれば上等ではなかろうか。
劇団企画部の吉田きったにメッセージした。
ニンゲンだった間に拠点に対して暮らしてこなかった事を少し悔やみながら。
なんとなくの初詣、居室から勤務先等との往復と、
決まったフランチャイズ店舗だけでの買い物、
何と勿体ない生き方をしていた事か。

20230311

黙祷。
日常的に主義主張を明らかにしているので、
今日はただ、大切な方がいまだ行方不明という方々の為に祈りたい。

20230312

カモンサトかもんさとの皆が界狭間の
回復の為に奔走してくれた。
始祖が直系係累の私にくれた我が家で
二つある界狭間の間口が二つとも
――タイミング的に間違いないと思われるが――
怪異のせい・・で、
いまだ断絶させられているからだ。
始祖と始祖の持ち物、
師匠と師匠の遣い魔、
カモンサトの京斉ちかなり店長と彼が造ったアンドロイド真代まよ、
ヒトと人工物だから
怪異に対抗するには
絆が足りないのかもしれないと言って、
十輝ときさんは全ての世界線の中で
最も絆が強いという
ブ×アティルトという世界で
傭兵をしていたという
ナリスさんとチカッツさんを交互に連れてきて
界狭間の再構築を試みていた。
今日は二番目三番目に
絆が強いと十輝さんが信じる
十輝さんの子孫の
ハイドさんとシャウさんという二卵性双生児と
ハイドさんの伴侶フレデリックさんを
ナリスさんとチカッツさんに加えて連れてきた。
ハイドさんが界狭間の暴走で
異星や異界に強制的に飛ばされた際に
シャウさんが幾度も界狭間を創り出して
迎えに行ったのだそうだ。
一つの世界線では
ハイドさんとフレデリックさんは結婚できたが、
三つの世界線で結婚する事なくとも
フレデリックさんは死して後も
他星のハイドさんの許へ馳せ参じたのだそうだ。
更には全員が全員と
各々既に深い絆が
築かれているそうで、
界狭間は界狭間自体の暴走以外では
縁が路を創るという
仮説が正しければ開かれる筈であるという、
界狭間を自在に行き来して
薔薇の苗を宇宙中から集めていた
十輝さんの経験則に裏付けられた強い信念だった。
師匠の界狭間口があった二階の家事室で
全身が総毛立った。
ナリスさんとハイドさんと
カモンサトの皆と始祖と私が見守る中、
ポウッと灯るような
黄金色の不思議な靄から
チカッツさんとシャウさんとフレデリックさんが
颯爽と現れたのだ。
初めて師匠が私の目の前で
師匠の遣い魔との縁を通じて
界狭間を構築して
隣市の私の旧宅から現れた時の
衝撃と感動が蘇った。
そしてあの時の何十倍もの感謝が
安堵と共に噴出して、
思わず皆に抱きついて
喜びと感謝を伝えてしまった。
私は界狭間の存在に
知らぬ間に依存していた事を痛感した。
怪異を退けられるまでは
全員の毛髪と爪を間口に設置して
界狭間を維持する事になった。
DNAを持つ物の利用は
敵の手に落ちると危険極まりないので
場面を選ぶが、
古来より最も強力な手法なのだそうだ。
ウチから徒歩圏のケーキ屋やパン屋に
毎日のように通いたいという
チビ猫獣人達の下心からの執念だったとしても
感謝しかない。

20230313

ラッキーキャアット♪ ラッキーラッキーキャアット♪
露天風呂を上がって屋内に入ると、
何処からともなく少し掠れた低めの女声の歌が聞こえた。
はっきりと聞き取れたが、実際は鼻歌程度の声量だった。
バンパイア特有の知覚鋭敏化がまた進んだのだろう。
ホラ大丈夫♪ 平気平気♪
ああ、懐かしい楽曲だ。
忌野清志郎さんのラッキーボーイだったか。
愛息朗正あきまさの小さい頃に歌った記憶が蘇る。
ちょっとや♪ そっとじゃ♪ へこたれない♪
痛いの♪ 痛いの♪ 飛んでけ♪
転んで焦がして♪ ベソ掻いて♫ 日が暮れて♪
着替えながら共に口遊んでいて、突如カクッと膝が折れた。
替歌の様子が不穏なので私は洗面室から飛び出し、
歌声がまだ続いている厨房へ首を突っ込んだ。
だけどー♪ ラッキーキャアット♪
焦げたらカラメルでーきたー♪
何処にあったのか絶妙な角度で設置した脚立に、
器用に跨がって立った
身長60センチ程の若草色のおかっぱ頭のチビ猫獣人が、
ソース作り用の小さな五徳のコンロの上でミルクパンを揺らしている。
ラッキーな猫♪ 失敗もーチャンスーさー♪ ラッキーキャアット♪
私「ナリスさんか、お早う。
火傷したなら直ぐに冷やさないと。何処を痛くしたの?」
ナリス「オハヨー、凌司りゅうしちゃ。
大丈夫大丈夫、舐めとけば治るって」
私「火傷を舐めちゃ駄目だよ。痕が残るし、
ピリピリ痛んで痕になるまでずっと不便な事になるからね」
私は製氷機の氷を一つ二つ水と共に入れたビニール袋の口を縛ると、
彼女がしゃぶっていた右手の人差し指へ差し出した。
私「調理を続けたいなら私がこうして氷嚢を持っておくから、
ちゃんと火傷した処を押し付けるんだよ」
ナリス「うん、ありがと」
私「何作ってるの?」
ナリス「カラメル」
私「なるほど。最初の予定は?」
ナリス「ガムシロップ」
私「ガムシロってわざわざ作る物なの?」
思わず頓狂な声が私の口から零れた。
そういえばかつての喫茶店では銀色の器になみなみと提供されたか。
店によってとろみや風味が微妙に違うと感じた時代が確かにあった。
ナリス「ほぞんりょー入ってるとなりだどが心配するから作るの。
なりだどってゆーのはね、
なりちんのヒューマンのパパの事ね……んーと、拾って育ててくれたヒト」
私「はいはい、名料理人だっていう」
ナリス「あったりー!」
私「ガムシロの他は何を作ろうと思ったの? 
バターと生クリームが出してあるけど」
ナリス「アー!! そうだった! 
甜菜糖半分は生キャラメル作ろうと思ってたんだった!」
私「キャラメルなんて作れるものなんだ?! 凄いな、ナリスさん」
ゴミ箱の空になった小さな甜菜糖の袋に向けられた
彼女の恨めし気な眼差しに
私が気づいたのは直後だった。
ナリス「そこにさ、評判のお菓子屋さんがあるんだけどさ、
評判の生キャラメル、すっごくイイオネダンしたからさ、
ググったら作れるって書いてあるじゃん?」
私「なるほどね。キャラメルって甜菜糖じゃないと駄目なの? 
喜界島の黒糖粉なら有るんだけど」
ナリス「たぶん大丈夫! 貰って大丈夫ならちょうだい!」
私「勿論。ところで、独りなの珍しいんじゃない?」
私は氷嚢を彼女に手渡すと
黒糖の容器を吊戸棚から取り出しながら
疑問をぶつけてみた。
ナリス「なりちんね、ちかちんとケンカしたの」
私「そうか、原因は?」
ナリス「忘れちゃった」
私「ハハハ、忘れちゃうくらいカッとなったんだね、きっと」
ナリス「そうなんだよ! だから、生キャラメルもケチっちゃうんだよ。
ちかちんが食べたいって言ってたんだけどさ、
なりちんの貴重なオヤツ用お小遣いから
あのキンガクは出したくない気分なんだよ! 分かる?」
私「うん、仲直りはしたいけれど、
気分的に予算上限を上げられないって事かな?」
ナリス「そう! それ! あ、久幸ひさゆきさま、オハヨー」
始祖「ナリチャンお早うさん。
俺もそろそろ『久幸ひさゆきちゃ』になりてぇなー」
ナリス「良いの?」
始祖「良いよ、つか、寧ろ嬉しいネ」
ナリス「うん。じゃ久幸ひさゆきさ……ひさにゅきちゃ」
始祖「おっしゃ! 『久幸ひさゆきちゃ』イタダキマシター!」
始祖はナリスさんが噛んだ事を華麗にスルーして
大げさに喜んでガッツポーズを決めて見せると
私の頭上に視線を走らせた。
吊戸棚に仕舞われている大量のプロテインに用があるのだろう。
私「久幸ひさゆきさん、プロテイン?」
始祖「おう、コーヒーのヤツ、よろ。ナリチャンも飲む?」
ナリス「なりちん、プロテインはノットフォーミーだったから良い」
始祖「クックックッ……うん、良い言葉だなソレ」
ノットフォーミー、私の為のものではなかった、
好みではないという言葉をオブラートに包んだらしい。
朗正あきまさも何時からか使っている。
他者の好みを否定しない良い言葉だと私も思う。
その後三人で黒糖生キャラメルを作った。
初めてにしては美味くできたと思う。
ナリスさんがチカッツさんと上手く仲直りできる事を祈る。

20230314

ホワイトデー。
バレンタインデーに頂いた分の御礼に
市内のパティスリーでクッキーの詰め合わせを
サイズ別に三種買って届けに廻った。
元妻絵理香えりか、劇団本社の八名、
ナリスさんとチカッツさん。
ファンへの本人からの返礼は
禁止されているのが幸いだ。
大層気合いの入った贈り物が
ファンクラブ経由で七十八名から届いていた。
有り難い事だ。
本社の一名は本気チョコらしいから
十二分に気を付けるよう
社長と吉田きったから別々に忠告を受けていたので、
頂いた物に見合った金額ながらも
皆と同じ物にした。
ナリスさんとチカッツさんと件の彼女は大きな箱、
本社の七名は小さな箱、
元妻は中くらいの箱。
期待を打ち砕ける事を期待して、
ナリスさん達宛の二箱もわざと持って、
最初に非番の元妻の許へ、
次に本社へ行った。
始祖が策士だねぇと腹を抱えて笑った。
何とでも言うが良い。
バンパイアとなったばかりの今、
退魔師となったばかりの今、
大規模怪異発生中の今、
色恋に溺れる勇気など
とてもじゃないが持てない。
恋というものは
落ちる時は落ちてしまうものだから
冷静でいられる間くらいは
遠ざけておきたいのだ。

20230315

瞼と頭が鉛のように重くて起き上がれず、
何時の間に喉に居着いた棘虫にのど飴で対抗していると、
始祖から精神感応念話が飛び込んだ。
何と、健康優良バンパイアそのものの始祖が、
同じ症状に苦しんでいると言うではないか。
放送禁止用語が飛び出すほど辛いようだ。
私が哀れになって詫びの言葉を掛けると
始祖は即座に反省の色を見せた。
念話しているつもりは無さそうな
「何で?」という言葉が繰り返される。
そう言われてみればそうだ。
この邸内どころか、
この敷地内で昨夜まで
花粉症の症状が出た事は無かった。
界狭間復活が関係するなら
一昨日にはこうなっていても不思議ないが
今朝になるまでこの邸内では快適に過ごせていた。
確かに何故……?

20230316

師匠とランさんが泰市たいちさんを連れて
取り急ぎの対花粉用魔法符の治験にいらした。
どの星のどの生き物の周りにも必ず存在する
風の精霊に花粉を追い払ってもらう契約呪符で、
呪符には契約報酬となる
精霊が好む香りを魔法で染み込ませてあるという。
そもそも
こちらの精霊に師匠の呪が通じるのか、
通じた場合
何時間効果がもつか、
試験を仰せつかった。
一点目の試験の為に
私が敷地外をランさんと走っている間、
師匠は始祖と一緒に邸の結界を強化してくださった。
微かに気配を感じたナニカは
こちらの望んだ仕事を請け負ってくれたようで、
ランさんを必死で追いかけて呼吸を荒げても
花粉が喉に侵入した感触は無かった。
師匠と始祖が一通り結界の出来を確認し終えると、
知らぬ間に始祖が一階劇場に設えていた
150インチのスクリーンでWBCを皆で観戦した。
私は野球にあまり興味は無かったのだが、
初球からの全力投球に一瞬で魅了され、
最後まで手に汗握り観戦してしまった。
この歳でこれ程の興奮を
味わわせてもらえるとは思わなかった。
有り難い。

20230317

快適な朝。
師匠の環境では風の精霊の好物が
七日に渡って滲み出るように
呪を設定してあるという呪符は、
露天風呂でも効果を発揮し続けてくれた。
有り難い。
実に有り難い。
今朝から見かけないが、
始祖もスッキリ爽やかに過ごしている事だろう。
しかし、何でもかんでも
知覚を反映し合っていたら戦闘時は勿論、
平時も少々不便なので、
主治医にメッセンジャーで対策を訊いた。
主治医「花粉症の症状までシンクロするのはとても珍しいよ。
万禮ばんらいさんが共感性の高い気質な上に、
アナタに対して開放的だからかな。
アナタが万禮ばんらいさんに影響されていると感じた事は?」
私「そう言われてみれば、
彼から私のパターンは無かったように思います」
主治医「それは良かったね。
なら、アナタの方でできる事は無いかな。
早晩万禮ばんらいさんの方で対策してくれるから大丈夫。
視覚とか聴覚の共有は
上手く使えるようになると便利だけれど、
今の時代は電波と携帯端末があれば
代用できる程度の事だし、
触覚なんかは遮断しないと不都合の方が多いよね、
戦闘時は勿論だけど
夜の営みとか夜の営みとか夜の営みとか。
大事な事だから三回言いました。
聞かないけど、
この先必要になる事もあるだろうから送っておくね。
http§⋮//19××××.vpjp/
リンク先はバンパイア専門の風俗店。
その都度のヒアリングで
どんな性指向にも性嗜好にも応えてくれるから
何時かの為に保存しておいてね。
元々淡白でも
バンパイア移行期に突然性衝動が強くなる人もいるから。
吸血衝動も安全に叶える事を生業にしてる
バンパイアもそこにいるって事も覚えておいて」
私「よく覚えておきます。
ありがとうございました」
主治医「(グッドラックのスタンプ)」

『元々淡白でも
バンパイア移行期に突然性衝動が強くなる人もいるから』
うーむ、なるほど?
昨夜の異変はそれか。

20230318

曇天に関わらず爽やかな朝。
不眠も悪夢もすっかり無縁となっていたので
夢現神社へ御礼参りに走った。
参拝後に謎の焦燥感に駆られて
逃げるように帰ってきてしまった。
御札と御守り……また参れば良いか。
私にはたまに人と接する事が苦手になる時がある。
独り暮らし最高の民を公言する所以だ。
誰とも目も合わせたくなくなるのだ。
すっかり忘れていたが、
その脳の厄介期が来たのだった。
天気が悪いからだと決めつけて、
フリータイムのカラオケ店に独り飛び込んだ。
アプリに登録してある
とりあえずの二十曲を歌い切った処で
人恋しさが脳に戻った。
うむ、人の気配から逃げ回るより
寂しさを感じる方が余程マシだ。
早く回復できてよかった。

20230319

劇団で販売する為の
SNS用スタンプを作らされた。
とりあえず文言だけ90個くらい頼むわと。
後でそれらしい表情の舞台写真と合成するそうだ。
最大6文字を2列という縛りが厳しい。
カモンサトで販売しているスタンプを購入し
ちかなり店長の許可をいただいて
真似させてもらって
かなりの数を稼ぐ事ができたが、
我々の過去の台本から
印象強い台詞を入れ始めたら
少々辛辣なものも加わってしまった。
うーむ、まぁ
適切に取捨選択してくれるだろう。
ヨシ!

20230320

SNS用スタンプの次の工程、
それらしい表情の舞台写真を選んで
合成するのは私の仕事だった……!
聞き慣れた始祖の放送禁止用語が
口を衝きそうになって
慌てて口を手で覆った。
万単位の枚数の写真データから使えそうな物を
俳優別のフォルダへ振り分けようと思う。
社長は今夏までに発売する
俳優混合で80枚だけを選れば良いと言ったが、
何時か俳優別に発売する事になる予感がしたので、
最新のデータから今日の処は3作品分まで遡った。
懐かしく楽しくはあったが、吐きそうだ。
うっかり根を詰めてしまったので
眼精疲労由来のものだろう。
ピント調整機能を正常化せねば。
探索は裸眼で行こう。
桔梗院の仕事を
夜にできるのは全くもって有り難い。

20230321

午前のWBC観戦後に
皆を誘って花見に繰り出した。
師匠とランさんと泰市たいちさん、
新しい友人のキャレンタさんとナセリアナさん、
そこへ始祖が家族に連絡して
万禮ばんらい一家がバンで合流してくれたので、
なかなかの大人数になったが
少し離れた穴場へ連れて行ってもらえた。
師匠の拡縮魔法で
バンが持ち運べるようになったので
人目の無い場所で乗降しては、
スポーツ施設や公園や飛行場の周りを
甜茶片手にのんびり歩いて廻った。
集まる為や呑む為の口実ではない
純粋な花見。
ひたすら桜並木を選んで歩いて、
感嘆の声を漏らしては
幸福をかみしめた。
このような時間は初めてかもしれない。
花粉症魔法符が良く効いてくれて良かった。

20230322

昨夜は師匠とランさんと泰市たいちさんと
キャレンタさんとナセリアナさんには
客間に泊まっていただいた。
今朝WBC決勝を一緒に
また一階劇場で観戦した後、
祝杯を上げて夕方まで宴会した。
みんな良く食べて良く呑んだ。
オンラインフードデリバリーサービスに
今日程感謝した日は無い。
夕焼けを見たいとの
ナセリアナさん達ての希望で
日暮れ時は屋上で西空を眺めた。
異界が逢魔が時の妖美を
覆い隠してしまわなくて良かった。

20230323

不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、
普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、
薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩、
阿弥陀如来、阿閦如来、大日如来、
虚空蔵菩薩の十三仏の梵字を
不意に思いついて書き上げたので、
先祖にでも手向けるかと
十数年ぶりに墓を参ったが無くなっていた。
住職に話を聞くと
父の後妻の産んだ子が
去年父の死を機に墓仕舞いしたと言う。
住職は私の手にしていたものを
目聡くみつけて
彼岸法要を申し出てくれた。
有り難い。

20230324

始祖に頼まれて
十三仏梵字を再び書いた。
万禮ばんらい家始祖の御家族は本日
彼岸供養に行くのだそうだ。
十三仏を書き順から調べて
幾度も格好がつくまで
書き直した八時間が
報われた気がした。

私は父が死んだ事すら知らなかった。

20230325

異界から持ち帰った物を、
桔梗院が加工して装備品に誂えてくれるので、
昨夜一晩中注力していた。
望んで離れていた相手との
有ったかもしれない時間と会話に
囚われるのは愚かな事だからだ。
「死んでも知らせないから、お前もそうしろ」と父に言われ、
「わかりました」と私が答えたあの時に、
既にこうなる事は決まっていたのだ。
私は覚悟の上だった。
彼もそうだった筈だ。
貧困の中で死んだらしいが
闇金融に手を出さず借金は無く、
介護を必要とする前に逝ったらしいという二点を、
私は生涯尊敬するだろう。
後者は完全に運によるものだが、運も才能の内だ。
言ったかもしれないが改めて。
「さようなら、お父さん」

20230326

一日中地下で始祖とDIYに勤しんだ。
ナリスさんチカッツさん
師匠やナセリアナさん等
身長70センチ以下の方々と
身長160センチ以上の我々が一緒に
双方安全に料理ができる厨房を造ろうと
始祖が発注していた材料が揃ったからだ。
有り難い。
退魔師の安全を確保する為か
ナビゲーターの健康を確保する為か、
探索回数には制限が設けられていて
内心私が求めていた没頭先には限度があったからだ。
ジムでの運動を同じ時間続ける事はできないが
このような作業ならうってつけだ。

20230327

何かを生み出すという作業に
これ程までに心が救われるとは。
名付けの苦労さえなければ実に楽しいのだが。
異界からの回収物で装備品を誂えるにあたって
名前をつけねばならないのが苦手だ。
前回は泰市たいちさんの名前を借りて
守備と敏捷と変調に
助力を与えてくれると言う物には
泰市たいちの髭と名付け、
攻撃・器用・敏捷は泰市たいちの爪と名付けて
始祖に贈ったのだが、
今回の敏捷・変調・回復は師匠っぽいなと思い
しかしながら師匠の名を入れるのは
憚られたので兎にし……
加工師の生暖かい眼差しと微笑みがまだ目に浮かぶ。
腹を抱えて笑ってくれた始祖に
ならばどう名付けたかを訊いたら、
涙を目尻に溜めて答えた。
始祖「一つは大空の羽根だが、選びにくいから
ステータス名の羅列にするようになったよ。
ゴクローサンご苦労さん! ブックククク……」
しまった、その手があったか!

20230328

何かを生み出すという作業に
これ程までに心が救われるとは。
名付けの苦労さえなければ実に楽しいのだが。
異界からの回収物で装備品を誂えるにあたって
名前をつけねばならないのが苦手だ。
前回は泰市たいちさんの名前を借りて
守備と敏捷と変調に
助力を与えてくれると言う物には
泰市たいちの髭と名付け、
攻撃・器用・敏捷は泰市たいちの爪と名付けて
始祖に贈ったのだが、
今回の敏捷・変調・回復は師匠っぽいなと思い
しかしながら師匠の名を入れるのは
憚られたので兎にし……
加工師の生暖かい眼差しと微笑みがまだ目に浮かぶ。
腹を抱えて笑ってくれた始祖に
ならばどう名付けたかを訊いたら、
涙を目尻に溜めて答えた。
始祖「一つは大空の羽根だが、選びにくいから
ステータス名の羅列にするようになったよ。
ゴクローサンご苦労さん! ブックククク……」
しまった、その手があったか!

20230329

朝から見かけなかった始祖が昼過ぎに
精神感応念話で話しかけてきた。
始祖「凌司りゅうし君、今暇?」
私「まぁ多少は。台本を読んでたので」
始祖「台本って吸血鬼の?」
私「そう、我々の馴れ初めの」
始祖「へぇえ、懲りねぇなー!」
私「え、不味いの?」
始祖「いや、もうこれからは俺がいるから
他の土地で演ってもあんな事にはならねぇよ」
私「え! そんなに刺激的な台詞なの!?」
始祖「まぁな。
だから他の劇中では何百年使われなかった筈だ」
私「作家にバンパイアが接触して止めさせたとか?」
始祖「……まぁそんなトコだろうな。
『匂い立つうなじ』の前のくだりは
省けるんなら省いた方が良いんじゃねぇかな」
私「何とまぁ……そうするように尽力するよ。
で、本題は?」
始祖「ああ、視界の共有ってした事なかっただろ?」
私「そんな事できるの?」
始祖「ああ、余裕の筈だぜ。
コレ、視えるか?」
私「肖像画? 美しい方ですね」
始祖「そこそこな、コレが俺の始祖」
私「ほほーぅ」
始祖「三時間したら飯の材料持って帰る。
晩飯は一緒に作ろう」
結局、調理中に始祖の始祖の話を
聞かせてくれる事はなかったが、
買って帰ってきた食材は
ゴルゴンゾーラチーズにマスカルポーネチーズ、
バターに生ハムにサラミ、
アスパラにグリーンピース、
私が見て分からなかったものは
特別なアーティチョークとホップの新芽と
シラタマソウの新芽とケシの新芽で、
イタリア北部の市場で買ったのだと
機嫌良く話してくれた。
始祖「これはリゾット、こっちは炒めてからオムレツ、
あれはサラダでいけるのが今だけだからサラダにする」
何も見ずにテキパキと既存の材料と一緒に仕分けして
調理手順も指示してくれた。
物を作る楽しみは、
始祖の過去に迫る楽しみにも勝る。

20230330

珍しく始祖が朝食後に行先を告げた。
始祖「万禮ばんらいの家に居っから、何か遭ったら絶対呼べよ。
探索は21時半スタートな」
何か夢中になれる物を手に入れたのだろう。
私は劇団長である朴ほおのき社長へ連絡して
バンパイアに刺激が強過ぎるらしい一文を削るよう打診した。
理由は「不評だったから」。
これまでにも練習に付き合わせた相手の意見を反映させられたので
勝算はあったのだが、
今回は社長が書いた台本だったのでかなり緊張した。
ほおのき社長「そっかー、じゃァ、無し・・で」
どうやら思い入れのある表現ではなかったようだ。
私は盛大に胸を撫で下ろした。

20230331

何やら始祖が傷心のようなので放って置いた。
彼は私の傍に居たければ来るタイプだから、
きっと今は独りで居たいのだろう。
精神感応念話は使わずに
メッセージアプリで明日の予定とリクエストを訊く。
こういう時にはスタンプが重宝する。
私「(『秘技!至福招き』のスタンプ)
明日、君の誕生日だよね?
予定とリクエストを教えてもらえる?」
数時間後に返信が届いた。
始祖「たぶんエイプリルフールで
昼過ぎになりちかチャンが来るから
二人で何かに化けて待とう。
リクエストはそれだな。
二人分の変装?」
私「では思い切って女装でもする?」
始祖「(『まじか』のスタンプ)」
私「ちょっと君にはハードルが高いか」
始祖「(『この際です、楽しみましょう』のスタンプ)」
私「了解。
では朝食後に、かな?」
始祖「(『宜しくお願いします』のスタンプ)
今夜の探索は22時半スタートな」
私「(『大丈夫、ツイてますよ』のスタンプ)」

20230401

朝食中に始祖に希望の仕上がりイメージを聞き、
食後一階衣裳部屋で衣装を見繕い
劇場裏の楽屋に移って女装を開始した。
常日頃から運動を欠かさない人は新陳代謝が活発なのだろう。
始祖は惚れ惚れする程に化粧乗りの良い肌だった。
立派な眉は半分を眉マスカラで肌色に染めて
ウィッグの前髪をおろせば問題ない。
190超えの身長は……
うむ、エイプリルフールだから問題ない。
師匠とランさんと泰市たいちさんも招いて、
始祖の誕生日とエイプリルフールを盛大に祝った。
ナリスさんとチカッツさんの髪色と瞳の色を真似た、
始祖と私の渾身の女装は大好評を得た。
師匠とランさんと泰市たいちさんは我が家へ移住したという
一瞬で真実を明かす可愛らしい嘘の為に
泰市たいちさんのキャットタワーや複数のトイレと
家で使っている食器まで持ってきた。
ナリスさんとチカッツさんは
完璧なこの星の女学生になってやってきた。
恒例のように門から玄関まで叫びながら。

ナリス「たのもー!!」
チカッツ「入学祝いくださーい!!」
二人が生まれ育った地は紛争がまだ続いていて
せっかく獣人の生を受けたのに
教育どころではなかったから
学校には多大なる憧憬があるのだと言う。
本物と見まごうばかりの制服は
彼等の店のちかなり店長の仕事で、
不自然な所の一つも無いヒューマンの姿は
師匠の変身魔法薬の仕事だそうだ。
タイムリミットが三時間だと言うので
皆で外へ出て女学生がしそうな遊びに付き合った。
ス×ーバックスで見栄えのする飲み物をテイクアウトして
ターゲティングが若めの商業施設を懲らしめてウインドウショッピングして
ゲームセンターでプ×クラを撮って、
本屋で色々な本を流し見した。

ナリス「凌司りゅうしちゃ、ありがとね!
お姉さんできたみたいで楽しかったよ!」
君達のお蔭で楽しい一日になったから、
女装のまま街を歩くのも……まぁ、ね。
始祖は笑顔が完全に固まって貼り付いているようだが、
なかなか眼福だったよ。

20230402

ナリスさんとチカッツさんが昨日の記念写真を届けてくれた。
写真を眺めながら始祖がニヤニヤして私に問うた。
始祖「誰の顔が一番好み?」
私「元の好みはやはり自分かな」
始祖「ハァ? オレスキーか!!」
私「? ……ああ! 
ナルシストの事か。違うよ。
遊びの時はそう作るのが癖になってるって事だよ」
始祖「ほーん……エリカチャンは好みだったんだろ?」
私「良く知ってるなぁ。
好みだけど三十年でトラウマになったんだよねぇ」
始祖「ブッ……ギャハハハハハ! 
ト! ラ! ウ! マ!」
私「僕達元夫妻について何処まで知ってるの?」
始祖「エリカチャンがちょーっと切れ易い事と、
一方的な離婚だった事、かね」
動揺している時の癖で
うっかり一人称が僕になってしまったが、
始祖は構わずにいてくれた。
洞察力の塊の癖に
こういう事で混ぜっ返さないのは
人ができてると感じて安心してしまう。
私「どうやったらそんな正確な情報が?」
始祖「凌司りゅうし君が始祖になった時に教えるヨ」
私「なると思う?」
始祖「今のままの間はならねぇだろうな。
でも百年先も今のままでいる為には
死にたくなる程の努力が要る。
あんたさんにも俺にも医者にも。
一人だけじゃ無理だ。
つーか! 俺に化粧してる時、
良い顔してたが好みじゃなかったのか?」
私「ああ、見慣れたからな、
新しい好みになったような
錯覚もしてない事もない気がしないでもない?
肌には間違いなく惚れ惚れしたよ」
始祖「……街を歩くのは30分以内で勘弁だが
化粧してもらう時間は楽しかったよ」
私「へぇ……意外、でもないか、
美容院もマメに行ってるみたいだものね。
触れられるのが好きなタイプなんだね、君」
始祖「ああ、相性はあるけどそれはあるな。
また何か口実見つけて遊ぼうぜ」
私「口実なんか無くても化粧くらい何時でも。
別に女装しなくたって良いんだから」
始祖「そっか! んじゃまた近い内な」
始祖は何かに納得したようで
鼻歌を歌いながら出て行った。
ふむ、彼の肌に合う色を増やすとしよう。

20230403

愛息朗正あきまさに誘われてカラオケに行った。
まだ友人と友人に関する記憶は戻っていないようだ。
陽桜ひざくらの何処かまでは覚えていないが、
念願の高校教師になったと
何年か前に祝いをしたのだが。

20230404

朝一番で始祖に怒鳴られた。
始祖「俳優の癖に喉嗄らすなんて馬ッ鹿じゃねぇの!」
まだまだ舞台が無いとはいえ、
プロ意識に欠けていたかもしれない。
反省せねば。

20230405

頭と体が重い。
別居中の愛娘は、自分からは一度も連絡を寄越さない。
メッセンジャーアプリで私が安否を問うと、
当たり障りのないスタンプだけが返される。
私から連絡される事を彼女が内心では鬱陶しく感じているような気がして、
そう尋ね、そうだと返ってくる夢をみる。
寝覚めは最悪だ。
起きている間は強い意志で押し退けられる奈落逝き妄想だが、
寝ている間は如何ともしがたい。
〜ゆく宛てなくただ漂う♪
壁の中のジプシー達よ♪
激しい雨が俺を洗う♪
激しい風が俺を運ぶ♪
激しいビートが俺に叫ぶ♪
何もかも♪ 
変わり始める〜♪
珍しく始祖が館内放送と紛うばかりの声量で歌っている。
ああ、そうか、また私の気鬱が伝わってしまったのか。
しかし選曲が良過ぎる・・・なぁ。
選りに選って私の影響で愛娘が夢中になったTHE MODSとは……。
ううむ、気合、気合だ。
私は掛け布団を横へ払って足を上げると、
ベッドを大きく蹴って腰を撥ね上げて起き上がり、床を払った。
私が洗顔と着替を済ませて同階の厨房へ顔を突っ込むと、
始祖が何事も無かったかのように玉子を差し出した。
始祖「おはようさん。今日は凌司りゅうし君が玉子担当な」
私「……ありがとう」
始祖「へっ、ドーイタシマシテ」
独り暮らし最高の民の称号は返上せねばならないな。

20230406

夕方、私は意を決して
――彼女に連絡する時はいつも多大なる勇気を必要とする――
愛娘華代かよに安否確認のメッセージを送ろうとして愕然とした。
何故無い!
メッセンジャーアプリに愛娘のアカウントが見つからない。
「お気に入りの友だち」として上段に表示される設定をしていたのに。
寝ぼけて設定を解除したかと全トーク相手から探すが見つからない。
「メンバーがいません」と表示されているアカウントの
全てのトーク履歴を確認しても華代かよとの履歴は見つからない。
ブロックされたらこう・・なるのだろうか?
ブロックされるような切っ掛けが何時何処に有った?
眼の前が真っ白になった。
彼女の生母である絵理香えりかには訊けない。
絵理香えりかが精神を病んで
同性の華代かよとは一緒に暮らせなくなり、
私の母が養子に迎えたのだ。
母はもう十年音信不通だ。
五年ほど前に突然メッセンジャーアプリ内で
「知り合いかも?」と表示される幾つかのアカウントの中に
華代かよらしきアカウントが現れた。
離れる以前に親しくしていた母の従妹に
私の新しい携帯電話番号を知らせたので
彼女から華代かよが教わって
自らの携帯電話の電話帳に登録した可能性が一番高い。
電話帳に登録すると
番号の合致した相手がこのメッセンジャーアプリに登録していれば
そう表示されるシステムのようだから。
接触する勇気を出せずに居た事を
相談していた吉田きったに後押しされて酔った勢いで
やっと「友だち」に登録する事が数年前に叶ったのだった。
私は母の教育方針に不満があったが、
この手で育てられない以上は干渉してはならないと考えて
華代かよを含む母の家族から物理的に距離を置いてきたので、
華代かよには幾重にも負い目があるという訳だ。
ともあれ、誰に相談する?
一先ず、朗正あきまさにメッセージしてテストブロックしてもらい、
こちらの表示はブロックされても何も変わらない事が確認できた。
ブロック後のこちらからのメッセージが
向こうに表示されなくなるだけのようだ。
ブロックではないという事が確認できた訳だ。
良かった。
アカウントを消せば「メンバーがいません」と表示されるのは知っている。
ならば、何が起きている?
桔梗院案件、か。
怪異に拐われた?
何時? 何処で? 
陽桜ひざくらなんかに来ていたのか?
それとも私が知っている彼等の行動範囲である豊島新宿渋谷区域で?
それとも彼等が毎月墓参する宮崎で?
どうなっている。
一般人は記憶を消されてしまうと言うから
全ての感情を殺して母や母の家族に訊いたとしても無駄だろう。
探索に精出すしかできる事は無いのか?
くそ!

20230407

始祖がマスクをくれた。
色形は変わらないが
以前にタケシさんがくださった物よりも更に
強力な嗅覚抑制術が施されているらしい。
始祖「安心しな、血の匂いを追わなくても
他の匂いで敵を見つけられっから。
天気も悪くて味方してくれてる、
今の内に教え……
今日の探索回数はまだ大丈夫か?」
私「大丈夫だ」
始祖「ヨシ、行くぞ。
夜は俺達にとって最高に動き易いが、
新人バンパイアにゃ刺激が強すぎるんだな。
特にあんたさんは聴力と視力の増幅が
起きてねぇみたいだからな。
嗅覚ばっか増幅して
そっちに気が取られちまってるんだろう」
私「目と耳も良くなるって?」
始祖「なるよ。
何ンでか今はまだなってねぇみたいだが、
遅かれ早かれなる。
どうだ? 昼間なら目が見えるから
鼻が少々利かなくなっても不安にならんだろ?」
私「ああ、なるほど」
始祖「どうだ? カビみてぇな喉に引っかかるヤツ分かるか?」
私「ああ、エグ味のある……」
始祖「そうだ、その辺の癖のある気体は奴等が発してる。
しょっちゅう胃を裏返してると、
その内逆流性食道炎やらかすからな」
私「ありがとう」
始祖「これは俺の責務だから気にすんな」
ああ、全然楽だ。
有り難い。

20230408

こんな短時間でどう仕上げたのか、
師匠が独鈷杵を真代まよに預けてくださった。
一瞬、師匠の物を取り急ぎ魔法で大きくして
貸してくださったのかと思ったが、
手にして直ぐに、
私の為に新たに作られた物だと直感した。
素人目にも分かる、
私に好意的な呪力が溢れている。
私は仏間はおろか仏壇も持っていないので、
この独鈷杵に師匠と約束した朝晩の読経を捧げる事にした。
北東にある寝室で西へ向いて読経するだけなのは、
なかなかに違和感があったので、誠に有り難い。

不意に思いついて、
前の住居の近所にあった寺院の花祭りに詣でた。
ああ、これが御縁というものか。
散華が風に舞う瞬間に到着して実感した。
何と有り難い事か。

20230409

師匠が倶利伽羅剣の魔法符を届けてくださった。
師匠「独鈷杵と倶利伽羅剣の
両方を持ち歩くのは不便この上ないので、
独鈷杵に必要な時に
俱利伽羅剣に変化する魔法を掛けるのです。
……ヨシ! 
凌司りゅうし氏、火界咒の真言をお願いします」
私「はい。
ノウマク サラバタタギャテイビャク 
サラバボッケイビャク サラバタタラタ 
センダマカロシャダ ケンギャキギャキ 
サラバビギナン ウンタラタ カンマン」
師匠特製の独鈷杵が、
三鈷杵そして俱利伽羅剣に変化し
火焔の中に龍まで顕現するその様が
あまりにも格好良くて
私はつい子どものようにはしゃいでしまった。
始祖が必死で笑いを堪えている。
始祖「ックックック……
ヨーシ、試し撃ちに行こうぜ。
俺がタンクしてやるよ。
トゥチャンがくれた防御強化服のお披露目だ。
が! 御免、銀が要るから表層境界で」
私「ああ、最初は私もその方が都合良いよ」
戦績は十二分だった。
全体攻撃魔法故に攻撃力は然程強化されないが、
当てられれば炎上効果を付与できるので
地味ながら確実に削る事ができる。
装備を万全に揃えて深夜、
常より頼りにしている四名と
初めてだが評判の一名の仲間に
助力を乞うて始祖と共にボス戦に臨んだ。
我々でも知っているまさかの怪異
しかし想像の斜め上をゆく凶暴さの
トイレの花子さんに始祖の連撃が止めを刺した。
異界は消滅しなかったが、
校内に居たと思しき人々が廊下に気絶した姿で現れた。
始祖に行方不明の三名の内
愛娘華代かよ朗正あきまさ愛息の友達イトウ君の
写真を共有して手伝ってもらい
二人で一人一人の顔を確かめながら進むと
とうとう始祖がイトウ君を発見した。
教師になったのは此処だったのだ!
良かった。
恐ろしい記憶はきれいさっぱり忘れて
良い教師として愛息の良い友人として
再び人生を謳歌してくれる事を祈るばかりだ。

20230410

我々が倒したトイレの花子さんは、
異界が存在する限り
何度でも湧いて出てくるようで、
祓うその都度新しく行方不明者が発見されるので
愛娘華代かよと同僚を見つけられるかもしれないという
希望を抱いて暫く通う事にした。
始祖も顔の分からない誰かを救い出したいようだ。
親しくした者が失った記憶を取り戻すか
この異界が閉じるかするまで続けるだろう。

20230411

劇団用タブレットが故障して半日を無駄にした。
起動画面でフリーズして
電源も切れず何の操作も受け付けず、
メッセンジャーアプリが使えない事に焦って
非常時に電灯代わりにするために初期化して保管していた
古いスマートフォンにシムカードを差し替えて
最低限のアプリをインストールし
次の機種を検討している間に、
電池が空になって電源が切れ
充電したら直った。
昨日は靴が逝った。
一昨日は鍋の取っ手が取れた。
気にしないよう努めていたが
地味に精神的ダメージを受けて
気付かず項垂れていたらしい。
始祖「凌司りゅうし君もパンチングバッグ叩いてみろよ。
スキッとするぜぇ」
始祖がボクシングの基礎を教えてくれた。
確かにかなりスッキリした。
有り難い。

20230412

そーだぜおいらは♪
一度裏切ったヤツは♪
二度と信用しねぇえ♪
忌野清志郎さんの歌が脳内リピートする。
昔は好きな部類の曲ではなかったのだが……
歳だろうか? 
バンパイア化移行期の変化なのだろうか?
何事も無かったかのようなタブレットを目にする度に
再生されるのはある種の啓示なのかもしれないと思い、
新機種の検討にまた半日を費やした。
スマートフォンにまでターゲットを広げたら
全然分からなくなった。
老眼だがカンタンスマホは嫌だ。
スペックが足りない。
だが戦闘に使うのにもう少し頑丈そうな物にしたいが
頑丈な物は小さい。
とうとう馬鹿馬鹿しくなったのでプールに飛び込んだ。
ああ、有り難い。
消毒液の匂いが頭と心を鎮めてくれる。
気付かず背泳ぎしながら独り言ちていたらしい。
始祖がプールサイドから覗き込んで私に問うた。
始祖「昔からか?」
私「う……ん? アレ?
何時からだったか……」
始祖「子どもの頃の学校のプールも好きだったか?」
私「……嫌いではなかったが
好きと言う程でもなかった……か?」
始祖「……凌司りゅうし君52(歳)だよな、
思い出せなくなる年頃か?」
私「呆けてるんだろうか?」
始祖「いやいやいや、
純粋に俺はその年頃が分からねぇってイミなんだが」
私「ああ、そうか、君は肉体年齢27歳のままなのか」
始祖「ま、そーゆー事だな。
男の更年期つぅのはゆきやすしか間近に見た事無いから
データが少ないんだよなァ。
何にせよ老眼はその内治るから安心しな」
バンパイアになったデメリットは私には今の処無いようだ。
有り難い。

20230413

ナリス「らっきぃきゃあっと♪
らっきらっききゃあっと♪」
チカッツ「たのもー!」 
ナリス「一陽来復御守りは要らんかねー!!」
今日は門の外からではなく、
二階の家事室から押し売りが現れた。
ナリス「御免、今日はこっちが先になっちゃったからさ」
チカッツ「万禮ばんらい様のお宅がお留守なので」
「ああ、成程ね。
ゆきやすゆきやすさんのご友人主催のパーティに出掛けるって言ってたね。
で、一陽来復御守りだって?」
チカッツ「猫の髭と711号室の絶えずの藤の実が入ってるんですの」
ナリス「かなりオリジナリチーわんさかだと思わない?」
私「ほほーぅ、それは珍しそうですね。
霊験もあらたかそうだ。
うむ、四つください。
息子に三つ渡せば、
君達の知らない者に渡るでしょうから」
ナリス「凌司りゅうしちゃ、天才なんじゃないの。
一本締めーッ! よーぉ!」
チカッツ「ありがとさまですー!
よーぉ!」 
パパパン! パパパン! パパパン! パン!
ナリス「「良い事ありますようにー!!」
チカッツ「四名様に良い事ありますようにー!!」
何かに似ている。
ああ、酉の市か。
これだけで私は既に良い事が起きた気分だ。
有り難い。

20230414

神隠しに遭った同僚が本社に戻った形跡は未だ無く、
愛娘華代かよのメッセンジャーアカウントも未だ回復せず、
異界が消滅したという報告も聞かぬのに
何故か異界への道が閉ざされ
探索に出られずじりじりしていたら、
珍しくチカッツさんから電子メッセージが来た。
チカッツ「(『此処だけの秘密です』のスタンプ)
昨日の久幸ひさゆき様のおめかし姿が格好良かったので、
チカッツは凌司りゅうし様の
男の格好のおめかし姿も見たいです。
何があったらおめかししてくださいますか?」
確かに昨夜の始祖はなかなかだった。
私が今更めかしたところで、
あそこまでの妖しげな華やかさは出せそうにないが
うーむ……うむ。
私「(『絶対言わないのスタンプ)
私は役者なので、
チカッツさんが役を作ってくださったら
お望みの姿をお見せできるかもしれません。
一場面だけで構いませんので考えてみてください」
チカッツ「(その手がありましたかのスタンプ)
ありがとございます!
いっしょけんめい考えますね!!」
私「(ウェルカムのスタンプ)」
若い頃の舞台写真ならお眼鏡に適う物があるかもしれないから、
探してみる事にする。
ほんの10分前に発動し掛けていた根暗思考は、跡形もなく吹き飛んでいた。
有り難い。

20230415

始祖にドレスコード水着着用の蓬風呂の会に誘われた。
風呂は良い。
彼等が気兼ねなく接し続けてくれたお蔭で、
私も彼等との水着の付き合いに躊躇が無くなった。
有り難い。
すっかりリラックスしたら
若かりし頃の若い女性に好評だった作品名を思い出し、
写真をサルベージできたのでチカッツさんに送った。
私「(『見て』のスタンプ)
若い頃に好評いただいた作品の写真が出てきたので送ります。
お眼鏡に適うと良いのですが」
1分しない内に返信が来た。
チカッツ「(『輝いてます』のスタンプ)
ステキ―!!!!
ありがとございます!!
でも今の凌司りゅうし様のも見たいので
もう少し待ってくださいね♡」
私「(『まじか』のスタンプ)
承知しました」
うーむ、今の私も、と来たか。
意外だった。

20230416

始祖の知人の息子さんが戻ったらしい。
件の方は高校生ではあったが、
陽桜ひざくら中央高校とは縁が無く、
足も踏み入れたことが無かったという。
他所で取り込まれて
陽桜ひざくら中央高校で放り出されたのだろうか?
謎は深まるばかりだ。

20230417

劇団用スタンプを作っていたら
始祖が藪から棒に精神感応念話で私に問い掛けた。
始祖「凌司りゅうし君、悪い。
エリカチャンとかカヨチャンって足幾つ?」
私「華代かよは知らないが絵理香えりかは24半だった」
始祖「普通かぁ……サンキュ」
私「足の大きな女性が困ってるとか?」
始祖「ナイスお察し!
ランチャンが25.5で
可愛いエ×マックス系の運動靴が欲しいらしいよ」
私「昔ハワイの直営店で
大きくても女性らしいデザインの物を見た気がするかな……
やはりそのサイズだと直営店が強いんじゃないか」
始祖「流石年の功。ありがとうよ!」
私「役に立てて良かったよ」
始祖「一緒に行かね?」
私「ああ、私も一足欲しいな」
始祖「俺明日シフトだから明後日は?」
私「大丈夫だよ」
始祖「押忍、明後日な。
探索は一時間後、オケ?」
私「オケ」
始祖「押忍、後で」
私「後で」
新しく開かれた探索先は妙に気が急くので
落ち着く為に師匠から頂いた薬草茶を淹れる。
焦るな。大丈夫だ。私は何ものにも囚われない。
自らに繰り返し言い聞かせた。

20230418

夕食後の食器を洗っていたら
バンパイア協会からクレジットカードが届けられた。
私が戸惑いを見せる前に
三つ揃いの仕立ての良い背広を着た配達人は
名刺を差し出しながら説明した。
深山みやま啓二みやま、
肩書は無いがどうやらバンパイア協会の職員のようだ。
深山みやま「表面に個人情報を印字しない
最新式への切り替えと重なり
発行が遅くなりましたが、
御始祖が万禮ばんらい久幸ひさゆき様であるなしに限らず、
バンパイアの御係累様になられた方には
お一人漏らさずお渡しする決まりとなっております。
今この場で裏面へ漢字姓名で御署名をお願いします」
私「はあ」
厳つい容貌の深山みやまにずっしりと重みのあるペンを渡されて、
私は大人しく従った。
深山みやま「ありがとうございます。
不本意かもしれませんが、
かど凌司りゅうし様の嗜好や性状と今後の変化等、
多くの情報を協会が把握する目的もございますので
支払いは須らくこちらからなさってください。
支払いは万禮ばんらい久幸ひさゆき様がなさいます。
彼に生き甲斐を与えると思って
遠慮無く散財なさればよろしい。
明細は機密情報として堅く守られますのでご安心を」
私「はあ……」
深山みやま万禮ばんらい久幸ひさゆき様の身に万に一つの事態が起こりましても
バンパイア協会が生涯お世話致しますのでご安心ください」
私「はあ」
深山みやま「御質問はございませんか?」
私「いえ、今の処」
深山みやま「365日24時間サポートデスクが開いておりますから
お電話でもチャットでも御気軽に御利用ください」
私「承知しました。御足労様です」
深山みやま「御丁寧にありがとうございます。失礼致します」
……うーむ、
私のカードの出入金明細を送れば文句は無いだろう。
勤務させてもらえている内くらいは、
自腹で生きたいじゃないか。

20230419

私「流石年の功、そっくりそのままお返しするよ」
店員が準備していた靴を嬉しそうに試着するランさんを眺めながら
私は始祖に感嘆の言葉を投げた。
一を聞いて十を知るとはこういう事だろう。
いや、天晴れ。
始祖は17日私と精神感応念話した直後に、
ストアアプリをランさんにダウンロードさせて
目ぼしい商品を予め調べさせると、
試着用に前後合わせて3サイズづつを
最寄りの店舗に取り寄せていたのだった。
ランさんはミッドカットとハイカットの三足を履き比べて
手持ちの衣類を思い浮かべて悩みに悩んだ末に、
始祖の囁きに頷いて
最も斬新なデザインのエ×ジョーダン7レトロBBSを購入した。
私「何て言ったの?」
始祖「大空大空ひろたかの古着で良ければ、
ソレに似合う服をプレゼントするってナ。
ランちゃんなら大空と大してサイズ変わらなさそうだろ。
お下がりは嘘だけどな。
ウチの店に良い感じのが有るんだョ」
始祖は最後の二言の声を落として
私にだけ種明かしした。
私「一々粋な男だねぇ」
始祖「ヘッ」
この男ときたら下心が微塵も無いのだから尊敬してしまう。

20230420

ランさんから始祖の贈った洋服を着て
昨日一緒にナ×キへ行って買った靴を履いた
写真が送られてきた。
まるでオーダーメイドのように似合っていた。
大した見立てだ。
私はと言えばB× Y×uカスタムシリーズに魅了されたので、
昨日はカスタム可能なシリーズを片端から試着しまくって
何が今の自分にフィットするかだけを調べ、
本日カスタマイズに六時間も溶かしてしまった。
来月届くらしい。楽しみだ。
この歳でこれ程までに心を高鳴らせるものに出会えるとは思わなかった。
有り難い。

20230421

バンパイアの縄張荒らしに遭遇した。
師匠と新しい帽子を手に入れたランさんと
三人で河原を散歩していたら襲われた。
闖入者「万禮ばんらいが来るのとかどが死ぬの、
どっちが早いか競争な!」
間の悪い奴だ。
私が始祖を呼ぶ前に
私が魔法符を発動する前に、
私に真っ直ぐ向かってきた闖入者は
ランさんに殴り倒された後に
師匠に捕縛魔法で拘束された。
闖入者「インチキじゃねぇか!!
何で狼女なんかと連るんでやがる!
何だこの術!!
クソ!! 放せよこのドグサレ×××!」
師匠「凌司りゅうし氏、この人今何て言ったんですか?」
私「うーむ……
とても悪い言葉なので聞かなかった事にしてください」
師匠「罵られたって事ですね。
自分が先に理不尽な事したのに。
久幸ひさゆき氏にたっぷりお仕置きされると良いです」
合言葉で始祖を呼ぶと
盛大に私が始祖に怒鳴り付けられた。
始祖「凌司りゅうしてめぇ! 
何ンで全て終わってからなんだよ!」
私が唖然としていると、
ランさんが代わりに詫びた。
ラン「御免、お楽しみはランが貰っちゃった」
始祖「いや、そうじゃねぇ。
危ねぇから、まじで危ねぇからさ。
今回はこの馬鹿で良かったけど、
他に凌司りゅうし君を狙ったと思わせて
女の子目掛けて来る上に
雷みてぇに速い奴も居るからよぅ、
絶対に口上始まった瞬間に俺を呼んでくれ」
私「そうか、済まなかった。
次は必ず敵意に気付いた瞬間に呼ぶよ」
始祖「そうしてくれ。
お、ランちゃん可愛い帽子かぶってるじゃん。
全身良く似合ってるよ」
ラン「ありがと。
昨日の写真を見せたらキャレンタがくれたんだ」
始祖「そっか、良かったな。
センスの良いトモダチばっかりで、俺含めて!」
ラン「あはは、そうだね。ランは恵まれてるよ」
始祖はバンパイア協会に通報して闖入者を引き渡した。
以前は問答無用で吸血処刑していた始祖が
初めて採った処遇だそうだ。
始祖「もう係累増やしてらんねぇんだわ。
他星の人を巻き込んだ罪は重いぜぇ。
精々反省するんだな」
闖入者「ヒトじゃねぇじゃねぇか!!」
始祖「馬鹿が。
他星と戦争に発展する事だって有り得るんだから
この星のニンゲン襲うより罪重いに決まってんだろ」
処刑と百年単位の禁固刑、どちらがマシか……。
師匠とランさんを見送った後、
夕食はジンギスカン料理を始祖が奢ってくれた。
始祖「怒鳴って済まん」
私「事情が事情だから仕方ないだろう」
うむ、大いに反省したよ私も。

20230422

師匠の誕生日を祝った。
師匠は爽やかな香りを好むようだったので
ハーブの寄せ植えを庭師に相談して作った。
土壌・水量・日当たり・繁殖力……
様々な要素の好みだけでなく相性まで考慮せねばならぬそうで
初心者には三種類がやっとだった。
ジャーマンカモミールとレモンバームとレモンバーベナ。
レモンバーベナが猫には良くなさそうだが、
人語を解する泰市たいちさんなら大丈夫だろう。
師匠宛に注意書きのメモ帳を添え、
泰市たいちさんの似顔絵に掌マークを重ねた札をプランターにも立てておいた。
安全に楽しんでもらえることを願うばかりだ。

20230423

泰市たいちさんが私の描いた似顔絵に気付いてくれたそうだ。
こちらでは鏡に写った自分を
認識できる猫からしてとても少ないそうなのに、
似顔絵を自分のものと認識までしてくれたと言うから感動だ。
そんな喜びと感動の午前だったが、
午後は少々修羅場だった。
元妻絵理香えりかが訪ねて来たのだ。
私の書斎と始祖の居室に
邸内を映す防犯カメラとモニターを
先週に始祖が導入したお蔭で知る事ができたのだが、
絵理香えりかは受付アンドロイドの真代まよを遠目で見るや否や、
駆け込んで来てカウンターを乗り越えて
真代まよに掴み掛かったのだった。
以前なら薄ら笑いでも浮かべていた筈だった私だが、
絶叫して階段を駆け下りた。
私「何考えてる!」
絵理香「ああ、アナタ、コレ作り物なのね」
私「西田・・絵理香えりかさん・・、器物損壊で警察を呼びますよ」
絵理香「面白い冗談を言うようになったのね」
私「冗談なんかじゃありませんよ。
受付業務をしたくない私の為に、
社が幾ら掛けてくれたと思ってるんです」
絵理香「……御免なさい、ねぇ、そんな怖い顔しないで」
私「一応訊くけど、何が気に入らなくてそんな真似を?」
絵理香「アナタに色目使ってる女だと思って」
私「だとしても! 
君にそんな行動をとる権利は無いだろう」
絵理香「どうして? どうしてそんな酷い事を言えるのよ!
アナタはかど凌司りゅうし、私の永遠の伴侶じゃない!」
私「君がそれを反故にしたの、覚えてないとは言わせませんよ」
絵理香「アナタ、アナタじゃないわ……誰なの?!
出て行きなさいよ! 此処は私の夫の家よ!」
私「夫じゃない」
始祖「失礼! 失礼しますがね、此処は俺の家です。
そしてこの男はニシダエリカさんの夫じゃなくて、
しがない男やもめで、今現在俺の最も大切な男です」
私「《は?》」
絵理香「何ですって?」
始祖「凌司りゅうし君、エリカちゃんにはちゃんと言ってくれって言ったろ。
俺と住んでるって言ってなかったの華代かよ。
《バンパイア式催眠術のお披露目をご希望か?》」
私「…………そうだったな、済まなかった。
《いや、未だ結構、だと思う。
来てくれて助かったよ、これで帰るだろう》」
絵理香「ア、アナタ……ソッチに行っちゃったのね……
分かったわ、男の人じゃ私勝てないもの……帰るわ。
送ってくれなくて結構よ」
言われなくても!!
……他者から見たら楽しいだろうなぁ。
何時かネタにしてやる。

20230424

愛息朗正あきまさが花束を抱えてやって来た。
私の始祖との第二の人生を祝福するそうだ。
……絵理香えりかに真実を知られると面倒この上ないので
そういう事にしておいた。
秘密を共有させる事は負担を強いる事に他ならない。
私には朗正あきまさを実直な人間になるよう躾けた責任がある。
同居する母親に嘘を隠して生きさせるのは間違っている。
過去に吐いた嘘を自己満足の為に明かす人間にだけは
なりたくないと願って生きてきた。
良心の呵責を一生抱いて生きる覚悟で
嘘は吐かれるべきだ。
そういう訳で朗正あきまさにも真実を明かさなかった。
どうせ私は己が既に人間でないという事から隠しているのだから、
彼等の日常と未来を護る嘘を窮めてやろうと決意した。

20230425

河原を歩いていたら殺気を感じたが
それは一瞬で奇妙な気配に置き換わった。
どうもこの辺りでは、
この川沿いが始祖の縄張境界線らしいので
最近は気を抜かぬよう用心している。
此処を通らずとも用は済ませられるのだが
何故か河口に近いこの川独特の薄い磯臭さに惹かれるのだ。
謎だ。潮風の香りは苦手なのに。
謎ゆえに捨て置けない。
欠落している同僚の記憶と関係があるかもしれない。
……関係があってほしい。

20230426

真綿で首を絞められるような感覚があり、
検索したら喘息発作かもしれない事が分かったので、
主治医にメッセージしてから病院へ行った。
主治医「かど凌司りゅうしさん、お待たせしました。
アレルギー性鼻炎は出てないのかな?」
私「はい、出てません」
主治医「じゃ見せてもらいますね。
はい、口開けてください。
はい、シャツを捲くってください、
胸と背中の音を聞かせてもらいます………
喘鳴は殆ど無いけど炎症はあるし、
軽くだけど気道閉塞は起きてるね。
バンパイア化移行期は心身共にとかく不安定にはなるけれど、
うーん、こういう症状は今まで一度も無かったんでしょ?」
私「はい、一度も」
主治医「バンパイアになってから初喘息っていうのはちょっと……
……かなり珍しいかな。
最後に飲食したのは何時?」
私「食事は三時間前です。
飲物は白湯を三十分前に」
主治医「苦しいのもうあと六分だけ我慢できます?」
私「はい、大丈夫です」
主治医「じゃ採血させてくださいね。
黄金週間明けを予定してた定期検診の分も多めにいただきます」
私「ありがとうございます」
主治医「へぇえ、以前より断然良い色してますね。
食生活でも変わりました?」
私「始祖に叱られて改善しました」
主治医「あー、万禮ばんらいさん、健康オタクだからねー。
良かった良かった。
吸血はもうしました?」
私「いえ、未だです」
主治医「あっそう……うーん、そうかあ……」
私「早くした方が良いんでしょうか?」
主治医「あ、誤解させてすみません。
喘息発作が吸血由来の可能性を知りたかったんです。
早く吸血を覚えた方が良いかは何とも言えないですね。
こればかりは統計が取れてない位に千差万別でしてね、
バンパイアになって数十年もの長き渡って
吸血衝動が起きなかった人も少なからずいるんです。
かどさんは吸血衝動はまだ起きてないんですよね?」
私「うーむ……? 多分無いと思います」
主治医「うん、無さそうですね。
アレはね、初回だけは強烈だから絶対に分かります。
万禮ばんらいさんに鎮めてもらって
ショックで吸血の記憶を失ってる可能性もあるんですけど、
最初の吸血衝動だけは忘れられないみたいなんですよ、
誰一人例外なく。
はい、採血お疲れ様。
続きは管支拡張と消炎の薬を吸引しながら
精神感応念話で話しましょう」
私「ありがとうございます。
因みに、
衝動が起きたら例のサイトに行けば良いんでしょうか?」
主治医「多分そんな余裕無いと思います。
私にメッセージとかも思いつけないんじゃないかな。
こっちは何故か個人差があんまり無くてね、
長い歴史で自死せずに乗り越えた人で
最も理性が強かった人でも、
始祖を呼ぶのが精一杯だったから」
私「最多例は?」
主治医「目の前にいた人が涸れてしまうまで」
私「それは避けたいです」
主治医「うん、そうだよね。
異変を感じ取ったら即万禮ばんらいさんを呼ぶ事が最適解かな。
万禮ばんらいさんなら吸わせるのもプロだから安心して、ね。
勝手に吸わせて勝手に涸れ死んだりなんか絶対にしないから」
私「はぁ……」
主治医「吸引薬、気持ち悪くない?」
私「はい、大丈夫です」
主治医「良かった。
多分万禮ばんらいさんは陽桜ひざくらの事件が終わるまでは
時が味方してくれる事を祈ってるんじゃないかな」
私「あの男が祈る?」
主治医「うん、こればっかりはお祈りゲーだからね。
どういうタイプとかどういう生活をしてたかとか
どうすれば衝動を遠避けられるのか
本当に全く統計が取れてないんだ。
でもきっとかどさんの性格と陽桜ひざくらの現状を鑑みて
できるだけ今はかどさんに血の味を覚えさせないように
万禮ばんらいさんは最大限の配慮をしてるだろうと私は思うよ」
私「そうですか……」
主治医「万禮ばんらいさんに信頼しかねるような事をされた?」
私「いいえ、全然」
主治医「吸引お疲れ様。
されたら直ぐ私でも協会でも報告してくださいね。
かどさんの受け取り様に対する
万禮ばんらいさんの理解が足りなかったって事で
フォローしますから」
私「はい」
主治医「他に不安や不満は?」
私「ありません」
主治医「黄金週間明けに採血の結果が出揃いますので、
体調に問題が無ければ次回はその時で。
何か起きれば連休中でもメッセージください」
私「はい、ありがとうございます」
うむ、信頼できる医師の存在は本当に有り難い。

20230427

朝食後、皿を洗い終えた始祖が首を傾げながら切り出した。
何かが腑に落ちてない時の始祖の癖だ。
始祖「今から同級生と高尾山行ってくる。
ちょっと先が見えねぇから、
飯とか探索とか自由行動予定で頼むよ」
私「了解。気を付けて」
始祖「押忍。あ、そっちに何かあったら?」
私「即呼びます」
始祖「オケ。んじゃなー」
始祖が高尾山? 
まぁ、始祖は運動全般好きだそうだから可笑しくはないのか。
?始祖の同級生?
……ああ、思い出した。
幼くしてご両親を亡くした久実ひさのりさんの為に
外見を幼くして久実ひさのりさんの二卵性双生児として
一緒に学校に通っていた時のか。
昨夜パソコンを発注できそうな人を見つけたと喜んでいたのが
何故山登りになったのか不思議だが、
きっと何時か話してくれるだろう。
独りの夕食で寂しくなってしまった私は食後に師匠とチャットして、
猫の泰市たいちさんが始祖の若い頃の肖像画に
初恋したかもしれない話で大いに盛り上がった。
私は件の肖像画を見たことが無かったので、
師匠に写真を送ってもらって見せてもらった。
うむ、確かに黒い猫に見えなくもない。
人間だった頃からあの不思議な色気が健在だった事に驚いた。
うむ、これはあの美しいバンパイアの始祖も他星の猫も
惹かれても不思議はないだろう。

20230428

始祖が髪を下ろして、
泰市たいちさんに会いに行った。
誘われた私も行きたかったのだが、
今日は半ドンで劇団員が
本社稽古場に集まる予定が入っていたので、
手土産だけ持って行ってもらった。
評判の和菓子詰め合わせだ。
一口サイズだから小さな師匠にも食べきれるだろう。

稽古場で意見交換と読み合わせと台本の調整とを
四五回繰り返した後、
食堂に場を移して懇親会の支度に精を出した。
その間に社長と総務部が完成させた
最終台本を食堂に運び込む姿を見た時、
薄く小さな弱々しい記憶の断片が、
私の脳裏で舞い降りた。
最終台本は最後の読み合わせの間に
印刷されていた筈だった。
意見交換と台本の調整を
小気味良い打鍵音で記録していた人が居た筈だった。
私と同じ頃に入団した…………たくみ、匠流生。
劇団螺笑門らしょうもん切っての敏腕キーパンチャー。
思い出した。やっと思い出した!
彼女が異界から戻ったから私が思い出せたのだろうか?
試しに隣に居た吉田きったに尋ねた。
私「匠さんは?」
吉田きった「タクミ? 誰?」
私「……いや、済まない。何でもない」
未だだったか。
落胆するな、これからだ。
吉田きった「あ、そうだ。
かどさん、今朝、絵理香えりかさんが此処に来たんですよ」
私「な、何て言った今?」
吉田きった「元奥さんが来たんですよ」
私「な、何しに?」
吉田きったかどさんの男性の同居人はかどさんの恋人だって」
私「何を考えてるんだあの人は……」
吉田きった「いや、多分っすけど、
受付の上藤さんを牽制したかったんじゃないかと」
上藤さんと言うのはホワイトデーに
私が最も大きいクッキー缶を返礼した人だ。
私「ああ……成る程、有り得るなぁ」
吉田きった「本当の処はどうなんすか?」
私「君も面倒臭いだろうから、
そういう事にしといて良いよ。
もう朗正あきまさにもそういう事にしてあるから」
吉田きった「了解っす。良いと思いますよ。
バンライさんでしたっけ、あの人美形だし色気あるし、
太刀打ちできないと思わせる魅力がありますから
そういう事にしとくのは全然有りだと思います」
私「じゃ、『そういう事』で」
吉田きった「合点承知の助っす」
済まない、始祖……同性愛者にしてしまった。

20230429

朝食前に始祖に昨日の結果を詫びた。
私「朝から申し訳ないが、
悪い知らせがあるんだ」
始祖「エリカチャンが此処に同居したがってるとか?」
私「縁起でもない! やめてくれ!」
始祖「クックック……
なら大した事なさそうじゃん。
どうした?」
始祖のこの話し易い雰囲気を作る気遣いには、毎度恐れ入る。
私「西田家のみならず、
我が劇団螺笑門らしょうもん内でも
君と私は恋人という事になりました」
始祖「俺じゃなくて凌司りゅうし君がモテ期到来だったか!
良いとも良いとも、しっかり擬態しようぜ!」
始祖は経緯を訊かず、さも楽しそうに乗り出して私の腰へ手を回した。
私「え、いや、そんなに張り切ってもらわなくても結構なんだよ?」
始祖「いんや、張り切るね。
来週になるか三十年後になるかは分からんが、
いずれ吸血し合うのは確かなんだから
外濠は早々に埋めとくのが最適解なんだよ、
分かるかねかど凌司りゅうし君」
私「何キャラ……?」
始祖「ま、半分冗談だが半分はガチだぜ。
直系係累に吸血衝動が起きて呼ばれたら
始祖はほぼほぼソイツとまぐわう事になるからな」
私「ま?」
真桑馬鍬魔具? 否、まぐわうまぐわうまぐわう
交わう……始祖、と? 私、が?
私「ま、まぐわゥウウ?!」
始祖「ま、その時が来たら全ての理性が吹っ飛んで
男だろーが女だろーが上だろーが下だろーが形振り構わなくなるから……
ご希望なら記憶は消してやるよ」
私「いや、そんな失礼な事は望まないよ」
ああ、そうか、だから
主治医(回想)『万禮ばんらいさんに鎮めてもらって
ショックで吸血の記憶を失ってる可能性もあるんですけど』
なのか。
かど凌司りゅうし、落ち着け。
私が最優先させるべきは何だ。
最優先事項は、
毎日他星まで点滴に通ってくださった大空ひろたかさんや
他星の御自宅で昏睡状態の私を預かってくださったランさんと師匠や
床ずれせぬようにと気遣ってくださったキャレンタさんに
何時の日か報いる為に生き延びる事と、
目の前に居合わせた人を傷つけない事。
それ以外は諦められる、だろう?
貞操とか貞操とか貞操とか貞操とか貞操とか
羞恥心とかそれまでに築いた関係とか。
獣になったとしても私は私に自死を許さぬのだから、
他は仕方あるまい。
ではその時に必要なのは……
己の変化を逸早く察知する事と、
始祖をコンマ秒でも早く呼ぶ事と、
始祖が到着するまで己の肉体を拘束する事、か。
私が合言葉で呼べば、
始祖は一秒すら待たせずに来てくれる事は実証されているから、
察知までの時間と
察知から口を動かすまでの時間を私が何とかすべきなのか。
うーーーーむ、難題だ。
方々に相談しよう。

20230430

師匠が加護精霊を与えてくださった。
私のリアルタイムの意に反してでも、
私の最初の意志を守ってくれると言う。
私に最初の吸血衝動が起きたら、
始祖を呼ぶ合言葉を言わせる事と
始祖以外からは吸血させない事とを
力尽くでも遂行してくれるよう頼んだ。
名を付けると更に絆が強まると言うので
ペンダントヘッドが仕上がるまでの数時間
悩みに悩んで恵玄よしはるにした。
宜しく。

20230501

認識票を提げるチェーンが何故ボールチェーンなのかが分かった気がする。
装身用チェーンの中で最も肌当たりが柔らかく丈夫なのだろう。
紐で昨日頂いたペンダントヘッドを提げたら
加護精霊の恵玄よしはるに抗議されたので
純チタン製ボールチェーンを発注した。
手持ちの喜平チェーンは
元妻絵理香えりかからの贈り物だったので避けてしまったのだが
この心境の変化はバンパイア化由来ではない普通だろうと思いたい。

20230502

      

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